ペーロン
全国健康生活普及会(全健会)・日本カイロプラクティック連合会(JCA)「兵庫奈良」地区部門長の関口です。
今回は加古川で活動されている、大野先生の所にお邪魔して打ち合わせしてきました。
会議じゃないので、殆ど写真がありません
・・・なので、昼食の写真をば
レモンスカッシュ美味かった♪
なんて、食べ物飲み物だけでは駄目かな?ってことで、打ち合わせ後に博多に戻ることを伝えたら、相生駅に送ってもらったので、相生について書いてみます。
相生についてといっても、駅に飾ってある船のことですが・・・
ペーロン競漕の歴史と由来
ペーロンの発祥
西暦紀元前300年のころ、中国の戦国時代、湖南地方で楚の宰相屈原は懐王を助けて善政を敷き、名宰相といわれていましたが、ざんげんにより政界より退けられました。その後間もなく懐王は、秦の軍勢に捕えられ客死しました。
屈原は楚の国運をなげいて汨羅(べきら)に身を投じました。人民はこれを非常に悲しみ、「ちまき」を作って川に投げ、龍船(白龍)を浮べて競漕し、その霊を慰めました。 ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれております。
我が国への伝来
我が国へは1655年に伝来したといわれています。その当時数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。 これを長崎の人達がとりいれて競漕を行うようになり、同地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。
当地相生では
大正11年に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられ、終戦までは毎年5月27日の海軍記念日に同社構内天白神社の例祭として、ボートレースと共に行われて来ましたが、この異国情緒あふれるペーロン競漕を絶やすことなく続けたいと、戦後、市・商工会議所・播磨造船所の共催による「相生港まつり」として開催し、また前夜祭として花火大会も行われるようになり、現在の祭りの基礎ができました。
昭和37年には市、商工会議所、石川島播磨重工業の三者により「相生ペーロン祭協賛会」を結成し、翌昭和38年からは「相生ペーロン祭」の海上行事として、ドン!デン!ジャン!と、中国特有の銅らと太鼓の音に合わせて力漕する姿は、まさに龍が水面を駆けるように壮観そのもので、盛大に行われております。 現在わが国で行われているところは、長崎のほかは相生、沖縄などです。
相生ペーロン船の沿革
大正12年に当時の長崎型ペーロン船をモデルに3隻同時に建造され、天龍・白龍・神龍と命名されました。その大きさは、長さ13.55m幅1.75mで、艇長1名、舵取1名、監督2名、太鼓1名、銅ら1名、漕手34名、計40名の船でした。
現在のペーロン船は少し小型化されていますが、龍の頭部をかたどった船首と木造和船の伝統を受け継ぎ、長さ13m、幅1.58mの船です。艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅ら1名、漕手28名、計32名が乗りです。
歴代のペーロン船の船名は、初代(天龍・白龍・神龍)、二代目(飛龍・雲龍・蛟龍)、三代目(天龍・白龍・神龍)四代目(飛龍・雲龍・昇龍)、五代目(天龍・白龍・神龍)、六代目(海龍・輝龍・蒼龍・瑞龍)、七代目(天龍・白龍・神龍・昇龍)、八代目(海龍・輝龍・蒼龍・瑞龍)、九代目(飛龍・雲龍・蛟龍・青龍)で、七代目・八代目・九代目のペーロン船12隻が現在使用されています。
現役を引退した二代目「雲龍」はJR相生駅に、三代目「天龍」は歴史民俗資料館に、四代目「昇龍」はペーロン海館に、「飛龍」は三重県鳥羽市の「船の博物館」で展示保存されています。また市内の小学校にも展示し児童に親しまれています。
・・・ってことのようです。
実際走ってる姿は観ていませんが、大迫力なんでしょうね
全健会ホームページと西日本の各ブログも見てね♪
西日本四国部門・カイロお遍路めぐり http://www.shikoku-nihonchokuhansohonsha.info/
西日本中国部門・日本カイロプラクティック連合会・全国健康生活普及会(中国部門) http://www.chugoku-nihonchokuhansohonsha.biz/
西日本九州部門・美と健康の集い(全健会)http://www.kyushu-nihonchokuhansohonsha.org/
日本カイロプラクティック連合会 http://www.japan-chiropractic.jp/
全国健康生活普及会 http://www.zenkenkai.jp/
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日本カイロプラクティック教育諮問委員会 http://www.jcce.jp/
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